怒り

ここ最近。怒りを感じる。ストレスと言ってもいいかもしれない。満たされて不満が溜まる。欲望は大きくなる分更に大きくなろうとする。怒りは、表現に必要なものだ。誰かの本を読むと、そこに書かれていること断言ばかり。確信ばかりが連なっている。そんなにはっきりと言えることなんて、何があるの?はっきりとわかってると言えることなんて、わかっていないということだけ。わかっているという人、それで良い気になっている人の足を引っ張ること。引っ張る楽しみ。それが僕の表現だ。こう書くと、なんていやらしくみみっちいことだと思う。こういった自分のいやらしさと向き合っていなかったから、何となく優しさを表現しようとしていたから、僅かな搾かすしか出てこなかったんだ。それで良いという人もいるかもしれないけれど、僕にはそれはどこか不自然に感じていた。それは僕が愛を信じられていないからだと思っていた。愛を信じる眼差し。世界への眼差し。それは世界が自分へ向ける眼差しのことだ。果たして自分は愛に満ち溢れていると言えるだろうか。宗教的な背景もなく、ただ言葉や、おとぎ話のようなものとしての愛が漂っている。内面はわからないけど、歌を歌う時には誰もがそこに座って声を発するんだ。自分を信じること。僕は今。自分を信じられないことに、理由を見出した。それは、周りが自分を見失わせているということ。責任転嫁だ。それは、自分がただの言葉としての理想を追い求めて、そこに居座ってしまった空虚な椅子からの転出だ。人は理想とは違うもの、生物だ。感情は反応に成り下がり。愛は言葉にした分だけ積み重なる。誰にだってあると言われている幸せは。既製品のようだ。それは幸せも、不幸も一人舞台で、演者も、観客も自分一人のものだから、滑稽でしかなくなってしまっているということだ。演じている自分以外は、辟易している。怒りを見つめ直すというのは、正確には、自分の中にあって、これまであって欲しくないもの、ないものとして扱ってきた感情に目を向け、自分の感情をなかったことにすることなく、一つ一つ昇華させていくことだ。怒りを作るのではなく。怒りを認める。(怒りを認める、というより、怒りが生まれる環境を認めるという方が近いかもしれない)

自分の理想に酔って、自分の感情を疎かにしてきた。自分の嫌な部分がわからなかった。人の嫌な部分を見て、なんて惨めな感情だろうと思っていた。まさにそれこそが高慢な、いやらしい感情だった。考え直し、見つめ直してみて、自分はなんて嫌な奴なのだろう。嫌な人間だったんだ、と気付いた時、それで自分を少し嫌いになった時、その時、僕は少し救われた気がした。自分を発見できたから。それは自分の感情が、自分の環境とどう影響し合っているかを正確に見つめ直すのに役に立った。まだまだ掘り出していない感情と、掘り出していない本当の自分。こうありたい自分ではなく、実際にそう生きているところの自分。実はこれが本当の理想なのではないだろうか。美しくなること、美しいものを作ること。そして死を超越すること。これらは理想の目的だ。これらの目的が、現実を手段に貶めてしまう。問題はその理想は誰のものか?ということだ。現実を犠牲にするほどその理想に価値はあるのか。

自分を疎かにしてしまう。自分というものを顧みずに、自分の理想というものは描けない。実際に自分がどういう生物なのか、どういう生物という機械なのか。歌を歌う機械があってもいいじゃないか。どれほどロマンティックなことかわからない。人が歌を歌うのは、機械が作業をするのと変わりがない。人の形をした機械が、機械の形をした人が、歌を歌う。プログラミングされたもの以上の効果をあげる。そんな理想。

Ken Matsuda怒り