誠実と器用さ

朝仕事から帰った後、お風呂に入って考え事をしていたら、30になって漸く、人生は人に気を使っているほど長くないという当たり前の事実に気がついた。言いたいことを言おう。書きたいことを書こう。誰に嫌われてもいいや。大事なのは自分がその人を好きなことだから。

誠実さと器用さについて考えていた。バルザックの言葉で、知識には善も悪もなく、それゆえ賢くなるとは悪徳を身につけることでもある。という趣旨の言葉があった。知識が豊富なことと、器用なことは少し違うが、両方とも、誠実さと完全に分離できないことでもある。誠実さとは何か、という問題はあるけれど、誠実で不器用な人、シャイな人、器用で打算的な人、利己的な人、というのは良く見かける分布だ。でも器用で誠実な人というのは少ないので、器用というだけで利己的であると見られるようになる。ただそれはそういう人が少ないからというだけなのじゃないだろうか。誠実な人は大切なものだけを持っている。余分なものを持たない。それだから、多くを持っている人を誠実な人だとは思えない。その人が多くを大切だと思っているのだとしてもだ。

こういう前置きをして。僕は器用な人になろうと思う。利己的な人になろうと思う。周りからはそう思われるような人になりたい。僕は欲張りだから。多くを求める。多過ぎると思われても、言われても、それにはこう返したい。あなたが少な過ぎるんじゃないか。

ぬるま湯よりは熱いお湯に入りたい。一秒でも長く起きていたい。美しいものだけに目を向けて、美しいものだけに囲まれていたい。煩わしいことから逃れて、心と心でだけ繋がれる繋がりの中にいたい。下手でもいいから一生懸命やって欲しい。上手いやつなんてこの世の中にいない。適当にやるのでも良い。でも適当にやりながら真剣なフリをしないで欲しい。そういうのは勝手に一人でやって欲しい。言い訳するよりも、次どうしたいかを考えて欲しい。未来の為じゃないと、過去は輝かない。いつだって色褪せているのは、色褪せた心が見せるもの。暗闇だって光の、輝きの一種だ。僕は光も、暗闇も好きだ。

Ken Matsuda誠実と器用さ