夢、また夢

朝方少し眠り、短い間で夢を見た。

夢の中では、年末に実家に帰り、おばあちゃんにも会って、でも体調が悪かったから寝込んで、年明けに漸く起き出して、年が明けたと知らなくて、父親にお前は挨拶もしていないじゃないかと言われた時、そういえば今は年明けの3日で、年末に今年もお世話になりましたとも、今も今年も宜しくお願いしますとも挨拶していないな、だからおばあちゃんはちょっと拗ねているように見えるんだと思い、おばあちゃんも、良いんですよ、私は大したことはしてあげてなかったですからと、やっぱり拗ねているように言って、その時になって、僕が去年アパートに引っ越した辺りで風邪を引き、寝込んでいるところに料理を作って来てくれたりとか、身の回りのこともやってもらったことを思い出し、それでもそのことを去年中にお礼を言えなかったことを申し訳なく思い、でももうそれは去年のことだから仕方がないと思い、すぐに今年もよろしくお願いします、と挨拶をした。

そうして、僕は目を覚まして、おばあちゃんにお礼を言わなきゃと思っていると、少し経ってから、おばあちゃんは既に何年か前に亡くなっていると思って、そういえば命日は1月1日だったということを思い出した。そして亡くなった時も、亡くなったという現実感が無くて、1月6日になって、夢の中でいつものように話をして、起きた後に、ああもういないんだなと実感したことを思い出した。いつも夢の中で話しかけてくる。1月6日の夢では、忘れないでね、と言っていたような気がする。今朝の夢では、忘れていたでしょ、と言っていた。起きた後も少しの間は、現におばあちゃんがまだ生きていると本当に思っていた。普段から、何となく、亡くなっていることを忘れて、まるでまだ生きているかのような気持ちでいるのかもしれない。

僕は、誰かがどうなっていようと、余り気にかけない。僕の中で、その人が生きているのであればそれでいい。全ての人の現状を知ることはできないから、きっとこの人はこうだろうという信頼さえあれば、僕にはそれでいい。僕は僕の心が綺麗であればそれでいいんだ。その人にとって、僕がその人のことをどう思っていようと関係がない。僕にとっては、僕がその人をどう思っているかが重要なんだ。そういった心の動きを自分の中に確認することができた。

夢というのはちぐはぐで、話が噛み合っていなかったり、筋が通っていなかったりするが、実感だけは本物だ。とすると、実感だけを信じている僕には、夢と現実の境は無いのかもしれない。起きてからも悲しみが抜けずに、僕はまた喪失を生き直した。それは誰かにとってはそうでなくとも、僕にとっては真実だったんだ。

お墓詣りには何の有効性も認めていないけれど、そこにおばあちゃんがいるわけでもないし、そもそもおばあちゃんも無宗教だから、お墓も大事にしていないし、本人もそこにいたいとは思っていなかっただろうけれど、それでもお墓詣りをしてもいいかもしれないと思った。お墓詣りの意味を見出した。小林秀雄が、信仰の何たるかをわからなければ人生はつまらないと言っていたのを、何故だろうと、思っていたのだけれど、少しわかったような気がする。信仰以外に、誰かと生きるということができるのだろうか、ということじゃないか。美しさは、美しさを信じた時、信じている時のみ感じられる。信仰は無知蒙昧の輩がするものだが、無知蒙昧でない人などどこにいるだろう。人が無知蒙昧から抜け出せることができるのだろうか。それは一番そこから抜け出そうとした人だけが知っている。何もしていない人は、まるで自分が無知蒙昧でないかのように振る舞い、まるで自分が無知蒙昧でないかのように振る舞っている人は、何もしていない。世界がそうであると、自分が信じることによってのみその世界が成り立っていると気づいていずに、信じるという行為を抜きにして、自分の捉えている世界がそこに存在しているかのように考えている。知識も一つの信仰なんだ。

昨日は眠くて仕方がなかったのに、僅かな眠りだけで、ここ何日か振りの目覚めを経験している。朝のテレビのニュースでも、親しく感じられる。人生は美しいと信じることでのみ、人生は美しくなる。

Ken Matsuda夢、また夢