女性性と男性性、透明な身体

女性の詩人の詩を読んでいると、女性としてこうしなければいけないとか、ああしなければいけないということへの反抗、抵抗であるように思えることがある。それは女性は生まれ育っていく過程で、女性であるということを男性よりも早くから意識させられるからだ、という人もいる。男性は男性で、男らしさというわかりやすい目安から、寧ろ社会人としてという、男らしさよりも一層求められているキャラクターへの圧力があると思う。女性は自分の肉体を絶えず意識させられるそうだ。確かに男性と比べて女性は肉体に変化が大きいし、早い。肉体の変化が多く早いということは、それだけ意識の変化も多く早いということだと思う。そこで、男性の変化の少なさと遅さ、鈍感さに対して、または女性同士のお互いの肉体を意識することにおいて、その女性を肉体で判断し、またされることに対しての反抗、抵抗がテーマとして出てくる。それは一つとしては、社会的に生きることの難しさという形で現れる。社会的に生きるということは、社会的人間、社会的キャラクターとして生きるという一面もあると思う。女性であるということと、社会的に生きるということは表向きは抵触しないが、女性であるということと、社会的キャラクターとして生きるということは、ズレがあるように思う。社会的キャラクターとは未だに男性的なイメージだからだ。それは男性が強いということではなく、寧ろ男性は社会的にしか生きることができないからだ。男性には妊娠、出産などの肉体の変化もなければ、変化を自覚する時期も遅い。それによって肉体への関心は自分のそれより女性の方へ向かう。自分のことは見ていないのだ。肉体がどうなっているのか、男性は女性より興味を持っていないのじゃないのだろうか。

だが待て、これは本当にそうだろうか。男性は変化が少なく、こと肉体に関しては意識の変化、心の成長も遅いと。僕自身は肉体は存在しないようなものだった。自由に使える道具でしかなかった。それによって自分の社会的成功が決められるとは思っていなかった。僕は身体感覚がなくて、どんどん透明になっていく気がしていた。そして遂に透明になった。いつまでも老いることはなく、ただ透けていくだけだ。消えていくだけだ。女性はそうじゃないのだろうか。そうは思わない。また、男性の男性性への強制的なキャラクターというものは、それは女性のそれとは質の違うものだ。男性は多分だが、ある時期を境に絶望からしか出発できないようになる。基本的に男性は消耗品だという。社会や家族、女性の為に身を削って奉仕し、認めてもらおうとする。求めているものは安心感だ。

これも話が少し変わってきている。男性の絶望が女性にもないのかというと、そうではない。お互いに男性の部分と女性の部分とがあるからだ。(例えば、ボディービルダーが鏡の前で自分の体をチェックする姿は、男性的ではなくどこか女性的な感じがしないだろうか。)僕が言いたいのは、女性は身体感覚を養い、それによって男性とは違う評価軸を持っている、ということが、女性の心にネガティブに捉えられている、或いは周りがそうさせている、という認識が一般に広まってきていると感じていて、それに対して、いや、男性にも絶望はある、それは男性性にあるまた別の評価軸であり、男性性と女性性の別々の評価軸をそれ自体によってどちらが優れているなどの優越を決めることはできないはずだ、ということだ。

女性性は肉体の重し。男性性は取れ高の重し。それぞれを比べることはできない。生物として別の存在だから、別の仕組みだからだ。そこに優越が入り込んでくるのはまた別の意識。簡単に言うと時代性だ。かつては女性の神が崇められていたという。かつては女性が支配していたという。それは古代の話。だからその評価軸もまた変わっていくだろうと思う。

考えてみると、生まれた瞬間にその人の才能や、未来がわかるということは、障害や、特に異質な特徴を備えていなければ予測することはできないし、大抵の人はしていないだろう。皆んな赤ん坊の時点でその赤ん坊の将来を限定したりはしていないと思っているだろう。けれどよく考えれば、女性として生まれるか、男性として生まれるか、ということで、人生は大きく変わるはずだ。女性であるか、男性であるかを問わず、そこからがスタートだという風潮があると思うが、実際は大きく違う。もう既に大きく決まっているのだ。男性性を持ち、絶望をするか。女性性を持ち、身体感覚に振り回されるか。それが透明であるか、透明でないか。そんなことも、ほとんど生まれた時に決まっていると言えるのじゃないだろうか。

男性であれ、女性であれ、その人の中の男性には女性の肉体への執着は理解できないし。その人の中の女性には男性の虚しさ、何かに縋りつきたい衝動は理解できない。それは別の仕組みをしているから。別の形をしているから。

女性の詩を読んでいて、肉体にまつわる、周りとの関係での振る舞い方、受け止め方に関するものと、そういった女性性から自由になろうとする、女性である前の、理想としての人間であろうとする行為であると感じるものと、或いは、所謂女性性から逃れて、真の、人間の女としての女性性を取り戻そうとしているのかもしれないと感じるものとがある。どこまで潜っているのか、どこから声を発しているのかは人それぞれだが、そういう傾向を感じる。そう感じると、ああ僕には書けない詩だな、遠い世界だという感じをうけてしまう。受けてしまっていた。だが僕が人間であるというより、真実は人間の男である。そういう肉体と歴史意識を持ち合わせた人格として社会に生きている男性性への抵抗、反抗として自分の詩や意識を眺めるならば、そこにあるものは同じだという気がする。女性性から逃れようとする人と、男性性から逃れようとする僕は、とても近いところにいると感じた。そう気付いた。今の自分の深度、立ち位置から。

Ken Matsuda女性性と男性性、透明な身体