演技性

日記を書いていると、そこに何もなくても、書いているうちに出てくる。何も書かなければ、そこから何かが生まれることはない。それで書いているうちに、その日のことから最近のことを思い返すようになって、それらについてもう一度自分の心の動きと、行動を点検し直すことになる。そうすると発見がいっぱいある。その瞬間は感じて、思って、いても、すぐに次のことに思考が向かう為、その感覚はそこに置き去りにされる。それを取りに戻った。例えばそれはそのままの意味でその物事が起こった場所に落ちている。その場所のことを思えば、その感触も思い出せる。静まり返った寝室の天井だったり、トイレのトイレットペーパーとめておくところだったり、スタジオの副流煙の匂いが髪に付いてきた時だったり、そういう時に話をしていたり、何か考えていたりしていて、それらのことがその情景から思い起こされる。

最近のことのゴタゴタは、全く余分なことだと思う。余分なことを経なければ辿り着けない道なのだとしたら、それは必要な全く余分なことだ。結果的によければ、それは良かったということになる。だから逆に結果的に悪くなれば、それは悪いということにすることもできる。余分なことにしたい自分がいる。この場合悪いことは、悪は、別れだ。良いことは継続。歩く道は常に崖っぷち。それはいつでも飛び込めるようでありたいから。バイトの唯一の認められた反抗が、ストライキでも懈怠でもなく、自由に辞められることであるのと同じように。(それだから尊重しなければならないのであって、いつでも辞められる、いつでも飛び込めるという自由を持っているのだから、それは尊重しなければいけないのだ。それは心ではなく、システムだ。自由を持ったものに対する接し方の形だ。もし崖っぷちを歩いていなかったり、訳あって辞めることができないバイト、仕事、をしているのだとたら、その自由はかなり狭まれる。そしてそういう僅かな自由を持っているものに対しては、どう接するかは周りの人の裁量次第で、良くもできるが、悪くもできる。自由を持っている者に対しては、良くしかできない。何故なら自由を持っている者は自分を傷つける自由も持っているから。)

その上で、自分が悪い方に導いているのではないかという疑問が出てくる。余分なものと思いたい自分が、それを、悪を育てている。その疑問がどうしてでてきたのか、それは話をしている時、或いは考えている時、その話をしていたり、考えていたりする自分を見ているもう一人の自分がいて、お前それはどうなんだ、大袈裟だな、やりすぎだよ、そう考えたいんだな、行き着く先は見えているか、と話しかけてくるからだ。そしてそう話しかけられていることに気づいていながらも、それが過ぎ去ってしまえばそのことについては忘れている。ただその瞬間だけで、その後にはいなくなってしまう。そいつが言うには、お前は本当にそういう身振り、口調、考え方、受け取り方が好きだな、というもの。その演技性を、特にそれが終わった瞬間にそいつは軽蔑の眼差しで見つめてくる。見つめてきていた。

そして自分はそれを忘れて日常に戻っていき、そこから出ることがない。何か演技をしたくて堪らないんだ。言い換えれば、喜んだりできないから、泣いたり、怒ったりしていたいんだ。そうだろう。自分の演技性に酔って、そこから抜け出せない者は、何物にもなることができない。観客は自分で、他者はいないのだから。世界は自分一人暮らしていけるだけでいいのだから。退化しかない。どんどん凝り固まっていって、それを大人になると言ったり、主義、信念、スタイルだと言ったりする。その演技性。

Ken Matsuda演技性