話題に上らない深い部分と自由と傷つくこと

家庭環境や友人関係、職場関係等のことは、距離が遠い分だけそれについて書きやすくなってくる。実際の深い部分は、常に誰にも語られないままだろうと思う。それぞれの家庭内事情や、友人との、恋人とのこと、職場でのことは、本当に近いところのものは、誰にも語られていない。Twitterなどで上がっている暴露話めいたものも、表面的なもので、本当に深い部分は、きっと誰に言っても理解されないものなのだろうと思う。自分ですら、自分のことをわかっていないのに、そのことについて話すことができて、さらにそれが他人である肉親や友人にわかるわけがないと思う。推測はできるが、わからないし、わかってはいけない、わかったなどと思ってはいけないと思う。自分のことを誰かは理解してくれるはずだという勘違いが、その人を失望させる。その勘違いだけで、随分と多くの人が勝手に傷ついている。その原因は、私にはあなたがわかる、という嘘をつく、あるいは間違った認識をもった大人がいることだ。肉親といえども別の人間なのだから、完璧にわかり合うことなどできない、最後は自分で自分を支えることしかできない、ということを、もっと伝えていくべきだと思う。

ラブソングで、愛情に溢れたような体の歌の胡散臭さと、失恋の歌の真に迫った感じとの差は、こういうところにあるのかもしれない。愛を探していたり、愛がないと、愛ではなかったと嘆くのは、真実に近いことのように見える。これが愛だ、と叫ぶものは嘘臭く見える。ただ、これが愛なのかという問いかけが、愛を探すその姿勢が、僕は美しいと思う。できるだけ深いところへ潜ろうとする。誰にも理解されないことを語ろうとする。期待する。期待して傷つく。そういった行為が、僕には凄く輝いて見える。

世間でいわゆるイタい言葉、人、厨二病というもの、それらは僕はとても素敵なものに見える。寧ろそれらをイタいとか厨二病で片付けてしまう人の型に嵌った感じ、つまらなさに、哀れみを感じる。自由であれば傷つくが、傷つかない自由などない。イタいことがなければ、輝きもない。とはいえ、理想は現実をみて、常識に縛られないという状態。常識という現実はあるけれど、それだけが現実ではない。色々な現実の中で、自由に傷ついていけばいいと思う。

Ken Matsuda話題に上らない深い部分と自由と傷つくこと