貧困と自殺

「貧困の人は自殺をするのだろうか」という疑問が浮かび上がった。

失望が自殺を導く。貧困は、最初から貧困であるならそれは失望にはならない。自殺をする人は何か大きな期待をしているような気がする。例えば世の中にいじめはない、あっても自分が対象にはならない、自分は貧乏にはならない等、幸せを期待するというより、疑うことなく信じ、現実を見ていない。現実を見ていない者が、現実を見てしまった時の落差、失望によりそれは引き起こされるのではないか。何事も、失敗を想定して行う場合と、想定せずに行う場合とでは、失望の度合いが違う。母親からの無償と思える愛を受けて、それがやがてなくなり、自分が人から愛されるのは、何か評価基準に満たなくてはならないと学習し始める。何もしなくても愛されていた筈が、何かでないと愛されない世界。昔、自分の母親が一番素敵だと思っていて、近所の子供に、その子のよく怒る母親と自分の母親のどちらが良いか聞いたことがある。今思えば子供の聞くことだと思うが、その時はその彼が「僕のお母さんが良い」と答えた時はびっくりした。そしてこれは形を変えて残っていて、今でも同じことをしてしまっている。「自分のもの」が良いと思う、「自分のもの」が不満だと思う。これらは周りを見て判断しているわけだが、その判断の「根拠」がどれくらいしっかりしているのかが問題で、「日本が一番」という根拠に、他の国全部に行って滞在してきたけれどという根拠があるのなら、それは現実的だといえる。どこどこが嫌い、というのも同じだ。自分であれ、家族であれ、会社であれ、国であれ、中身というのは想像はできても、深いところまではわからない。

自殺をするという尺度で考えた場合。自殺をする人は「失望している」。失望する理由は、まず「現実を見て」しまう何かきっかけがあって、「現実を見て」、「それが思っていたのと違っていたから」だ。これは「現実を見ていなかったから」というものと、「現実が悪くなっていった」という二つの条件が考えられる。もともと貧困で生まれ育った人は、この「現実が悪くなっていった」という部分が小さい。貧困という言葉は美醜にも置き換えられる。また、「現実を見ていなかった」という理由は、その人が世の中を知らない、知性がない、ナルシストであるからだと思う。誰もが大なり小なりナルシストで、これの度合いが強い人ほど傲慢だ。

「ナルシストでない人が自殺するだろうか」。

この場合、献身的に何かに身を捧げる結果の自殺を省いて考える。失望するのはナルシストだけだ。ナルシスト的な部分だけが、失望する。何かを盲目的に信じることも、その人を失望させる。強さの偽装、また、弱さの偽装もナルシシズムだ。傲慢さ。エゴというと少しわからなくなってくる。弱者の叫びも、ナルシシズムだ。

「ナルシシズムでない叫びがあるだろうか」。

弱者が強者に何かを要求する。不公平な取引、見せかけの自由。そういったものに怒りの声を上げる。しかし、その要求の「正当性」はなんだろうか。憲法に書いてあるからだろうか。それなら憲法にそれが書かれていない他の国ではそれらを受け入れるしかないのだろうか。弱者が強者に要求する時、弱者は自分たちが誰かにとっての強者であることを認識しているだろうか。日本という国は、圧倒的に搾取する側に立っていることを、その人たちはわかっているだろうか。世の中は不公平で、不平等だ。でもそのことが観念ではわかっても、体感として理解できない。自分の生には意味があって欲しい、あるべきだと思ってしまう。そうでなければ生きていられないから。生きることの、周りから「奪って」、「犠牲」にして生きることの「正当性」など本来はない。現実には何事も何も意味していない。だから、自分が生きる為には、そこに意味を見出す、意味を「創造」しなくてはならないと思う。

いってみれば、人生は生きる意味を「創造」することと、それを歪め、破壊する現実との戦いだ。この場合、誰かに与えられた、「その人には適しているが与えられた(真似した)自分には適していない、その人の為の生きる意味」を自分のものとしている人が、その意味を壊されやすい。誰にもそれぞれの身の丈にあった、或いは心の形にあった生きる意味というのがあると思う。それは盲目的に信じることでは余りに無防備で、壊れた時の衝撃も大きい。信じる、ということを、疑うということと一緒にして、その間で自分らしい生きる意味を模索していくことが大切だと思う。

Ken Matsuda貧困と自殺