2016.3.31

昨日は寝たのが3時だった。今日は起きたのは9時だった。寝苦しくて、ずっと力が入っていたような気がする。寝たような気がしないが、眠気はなかった。休まってはいない気がした。起きてからご飯を食べ、洗濯をして、昨日からの届いた機材のセッティングの続きをする。

昼過ぎまでかかって問題を解決して、次の製品に取り掛かる。夕方になって、弾き語りに行こうと思い、外に出る。もう春らしい、穏やかな気候だった。家にいるのが勿体無い空気があった。穏やかな風が吹いていた。

金山で一通りオリジナルを演奏して、それからカルディでベルギービールを買って、平針で降りてガストで食べてから帰った。帰ってからビールを一本飲んで、お風呂に入って、身体が重くて動かないくらい疲れていたので、そのまますぐに寝てしまった。

金山では演奏している人が沢山いて、埋もれさせてくれた。春休みだからか、若い人たちも沢山いて、若い人か、年寄りか、やることのない人たちか、あるいはちょっと変わったその間の人たちで溢れていた。募金活動をしている学生達もいた。とても一生懸命声を出して震災での被害者の悲しみについて伝えようとしていた。募金をしてくれた人に対してはみんなで一斉にありがとうございました、とお礼を言っていた。叫びも、お礼も、どちらの声も僕のところまで届いてきた。同じくらいの大きさで、それは主張をしていた。同じくらいの大きさであること、それは胡散臭さだ。一生懸命さというユニフォームだ。歌い手も、一生懸命さというユニフォームを身に纏っている時がある。特にそれ以外にやることがない時に、それ以外に方法が見つからない時に、一生懸命さであろうとする。それはただの形なので、中身を表そうとする姿勢を見せているだけの形なので、ただの押し付けがましさしか感じない。路上では叫んだものが勝つ。大きさ。愛の大きさ。失恋の大きさ。恋の大きさ。夢の大きさ。それらしさよりは、大きく、見た目が良いものがいい。輝いているものが良い。着飾っているものが良い。それ以外に無ければ。学生達。彼らは自分のお小遣いも注ぎ込んだのだろうか。彼らが大人になった時に、この時と同じ位の熱量で、その時に見合った形で寄付をするのだろうか。弾き語りをする人も、聴く人も、ボランティアをする人も、それ以外にやることがある人がやっていることはあるのだろうか。何かを犠牲にして、ただの情熱だけではない何かを犠牲にして、人の為に何かできる人は凄いと思う。

とりあえず、みんな叫ぶんだ。呟いていたら、誰も聴いてはくれないから。でも叫ぶ程の想いがあることなんて、どれくらいあるのか。叫びたい。叫びたい想いが、どこかに行ってしまわぬように、それを確かめるように。路上は矛盾だらけ。みんな作り物の笑顔。作り物の歌に、傷つく僕の作り物の心臓。同じ温度で触れ合えば、何も感じないだろうけど。

Ken Matsuda2016.3.31