2015.8.21

朝早くから車で色々なところに行った。サービスエリアで本を読んだ。人が好きだ。

名古屋に戻るといつもの感じ。いつもの味。家に帰らずにそのまま読書会へ。

今回で二回目の読書会。エーリッヒ・フロムの「愛するということ」が課題本だった。殆どの人は現実的ではない、現状にあっていないと感じたようだった。しかし愛するということについて語る機会は中々ない。みんなのページを頭の方だけ立ち読みさせてもらった気分。もっと読みたいと思ったけれど、それには時間が足りない。僕の好奇心以上の誠実さも。待つことの誠実さ。距離をとることの大切さ。それでも近くに行ければ行きたい。

愛することの必要性。僕はこの本を読み返して、色々気づけたことがあった。再発見というか、いつもここからということだけれど。

行動、には信念が伴わなければいけない。信じる、結果を、理想を、という信じるという姿勢があって、初めて行為に中身が伴うと言えると思う。まず信じ、信じるから勇気を持て、勇気を持つから行動ができる、挑戦ができる。待つこと、受動的になることは、殆どが信じられていないことへの言い訳だ。何か釈然としないというのは、何か信じるに値しない、信じる気力、勇気がないということの都合の良い解釈だ。僕にはそうだった。信じるということはリスクを犯すということ。危ういものが信念だ。リスクを犯しているものだけが、自分の欲しいものを手に入れることができる。信じられるものだけが、愛することができる。

「愛するということ」の直訳は「愛し方の技術」だが、エーリッヒ・フロムがこれを「愛し方の才能」としなかったことの意味を考えることが、この本を身近なものとして感じる、ではなく、感じようとすることの意味がわかると思う。それを必要と感じるかどうかは人それぞれだけれど。

夜中に帰る。携帯の充電が1%のまま家までもった。割合がおかしい気がする。

 

 

以下、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」の感想。

この本の中でフロムは、愛は対象ではなく技術の問題だと「言っている」。というより、技術の問題だと信じてみる、つまり今を底辺だと仮定して、もっと理想の世界がある、そしてそこには「誰もが修練を積めば」到達できると仮定、信じてみている。つまりそういう世界を思い描く、そういう世界を創造した、のだと思う。この本には最上級の愛の技術の素晴らしさよりも、現実の愛の惨めさを描いている部分が多い。理想よりも、警告が多い。そしてその批判が僕には新しかった。ナルシストは自分を愛しているのではなく、寧ろ憎んでいる、愛せないでいる。神への愛は、ビジネスを成功させる為の道具と成り下がっている。諸々の愛も。等の警告。だからこの本は哲学というよりも、詩に近いと思った。理想を掲げ、現実を見据えてみれば理想が遠いという、信じることの危うさをもった本だと思った。この本を批判しようとする人は簡単で、それはそこに論理がないからで、詩があるからだ。大事なのは詩だと思う。理想を掲げざるを得ない衝動、信念。穴だらけだからこそ美しい、というものもある。その穴は僕の穴かもしれないし、これからまた違うものをそこから得られるかもしれない。

こういうのが嫌いな人は多いだろうと思う。人生に付加価値を見出さなくてはならないと思っている人のことを、回りくどい人、余裕のある人、甘えた人と捉えるかもしれない。そういう部分も大いにある、と僕は思う。

Ken Matsuda2015.8.21