2015.7.24

朝DVDを返しに行った後、カザンでモーニングを食べる。易経を読む。

昼から寝て夕方から仕事へ行く。

昨日の夜か、一昨日の夜に掴めたものがあった。それは何だったのだろう。忘れてからまた思い出す。それは倫理観。生活の態度。全ての違和感の正体を探ること。自分の曲の違和感。脆さと強さ。浅いところで呼吸して、そこで安穏としていた。深いところへ行かなくちゃ。一つ一つの欺瞞の解体。例えば会話。メール。食事。性の問題。

仕事やゲームはわかりやすい。そこを離れた個人は、生き辛い。勝ち負けの無い世界で、どう尊厳を見つけるのか。人は結局のところ理性ではなく、生理的な反応で形作られているように思える。生理的嫌悪が理性を作り上げる。その光景をグロテスクだと感じるか感じないかが分かれ目のような気がする。自分の醜さを見つめて、それでも出来るだけ美しくありたいと思わなければ、そう目指なければ、本当の自信は得られないのではないだろうか。

人と人が何を介して繋がっているか。何を犠牲にして繋がっているか。自分の何を犠牲にして繋がっているか。その輪の中に入る為に何を捨てていくのか。本当にそうしなければいけないのか。

僕は僕の何を裏切っているのか、裏切っていないとすれば、僕は何に裏切られたと思っていたいのか、そこを知りたい。

深夜の仮眠時間で、座禅を組んで、考え事をした。自分が自分の見たいようにしか人のことも、自分のことも見ていないことに気がついた。そのことを直視することは怖い。それをどう見るかという普段の態度と、それが実際にはどうなっているのかという客観的な態度、この場合は偶発的尚且つ因果的に省みる態度。つまり本人の視点に立って、どうしてもそうせざるを得なかった理由を捉え、そのままでの今後の成り行きも見通す態度。この二つの態度の問題。誰かに成り切って考えるということをしてこなかったこと、それがとても怖いことに、自分のまだまだ人生の未開なのを発見した。

その人に成り切るには、共通の問題に意識を向ければ良い。何を食べて、何に保護されて、何に脅かされて、徐々に明らかになる能力の差異、思春期からは性の問題が、それらを歪ませ、時に正すこともある出会いが、人に固有な問題の何で遊べるか、等々。その人の、今ここに在ることの、どうしようもなさ。

それが人ではなく、動植物にまで広がる、深化することができれば、それぞれの生の儚さを会得することができそうな気がする。未来の、自分の老いた姿を想像する。そうすると、今の躊躇いが、全て勿体無く見える。誰も彼も、若くない時が来る。その時に思い出になってしまえば、それはそれまでで、それを生き直すことはできない。そのまま想像できるような思い出になる前に、それを超える人生を歩めればいい。

Ken Matsuda2015.7.24